高齢者の自立支援
措置から契約の時代に変わり、要介護者、要支援者(以外、高齢者)は、選択の自由を得る事になりました。
何でもかんでもしてあげるというような過介護は、悪とし、出来る所は自分でしましょうね、出来ない所は手伝いますよ、で、機能的に出来ない事をしてねと言うのではなく、出来るように環境なりの調整をして、文字通り、自立に向けて支援する事を、まぁ簡単に言うと自立支援というのですね。
しかしちょっと待ってほしい。
そもそも自立支援というのは、対象である高齢者に「その気」があってこそ成立するものだ。
その気のない高齢者にいくら誠意を尽くしたとて、一向に反響のない高齢者は少なからず存在する。
勿論逆も然りだが、あまりに多い。
「死にたい」という高齢者がいる。
だが仕事が趣味であり生き甲斐のような連中は「それは建前で本当のニーズがあるはずですよね」と嬉々として言う。
本当に死にたいかもしれないのに、その可能性は真っ向から否定する。
人はいずれ例外なく確実に死ぬ。
死の定義をどうこういうつもりはないが、多くの疾患を抱えて満足に動けなくなった高齢者が、「死にたい」という事に何の嘘があるのか。
仮にリハビリや支援者側のエゴともとれる熱意に応え、懸命に頑張れば若返って昔のように「何でも出来ていた」能力を取り戻す事が出来るのなら話は別だ。
死にたいという高齢者は全員死ねばいいという話ではない。
一部宗教化しているように見える、相談援助職の人達が声高に訴える「本当のニーズ」が本当に「本当のニーズ」なのか、本当の事は、その高齢者しか分からない。
分からないはずなのに、世間一般的に消極的なものとされる類の訴えには全力で蓋をし、さも素晴らしい世界が待っているとはがりに嬉々として「リハビリの先」にある話をする。
私の目標は「極力、他人に迷惑をかけず死ぬ」事だ。
迷惑をかけない為にリハビリをして、自立に向けて頑張らないといけないのだろう。そこに「何がしたい」というのはなく、「迷惑をかけない為に」という理由しか存在しない。